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オリンピックに縁のある立教関係者を紹介

神保町に建つ趣のある古書店「東陽堂」。大正13年に創業し、創業100年を間近に控えたこの古書店の3代目店主・髙林孝行氏(平2産)は、アトランタ五輪・野球の銀メダリストです。甲子園出場、六大学野球優勝、社会人野球ベストナイン選出、オリンピックで銀メダル獲得という華々しい経歴をもつ髙林氏に、学生時代の思い出や、日本代表としての裏話等、立教ならではのお話を伺いました。

―髙林さんはいつから野球を始められたのですか。

プロ野球選手だった父(髙林恒夫氏(昭35経))の影響で、小さい頃からキャッチボールなどはやっていましたが、本格的に始めたのは地元の少年野球チームに入った小学校4年生くらいからです。立教中学校でも野球部に入ったのですが、私たちの代は顧問の故・久保田正光先生(昭28化)に「史上最弱だ」と言われるほど弱く、都大会にすら出場することが出来ませんでした。上の代も、下の代もそれなりに強かったので、本当に私たちの代だけが弱かったのです。
高校に進学すると2学年上に長嶋一茂さんがいました。その影響もあってか、入学した頃から立教高校は強くて、甲子園出場が今にも手に届きそうな状況でした。とはいえ、当時の埼玉県は川越工業や熊谷商業など強い高校も多かったんです。春の選抜で埼玉から2校が出場するほどでした。そんな状況の中、私たちは1985年の春の埼玉大会で準優勝することができました。そこで夏の大会の第2シードを獲れたことも甲子園出場につながった要因だと思います。

髙林さん

―そして、1985年に初めて立教高校が夏の甲子園に出場したのですね。当時、西口のマルイの前にたくさんのバスが並んで、みんなで甲子園に応援に行ったことは、今でも鮮明に覚えています。

立教の応援団すごかったですよね。高校の関係者だけでなく、大学生や大学のOBOGもたくさん応援に来てくれて。1回戦から決勝戦のような盛り上がりでした。甲子園球場で販売している食べ物や飲み物を、立教応援団が買い占めたという逸話も聞いたことがあります。

―そして、甲子園出場メンバーが大学に進学すると、大学野球でも盛り上がっていきましたね

そうですね。先発メンバーのほとんどを立教高校出身者が占めるという時もありました。当時、大学の野球部は80人くらい部員がいました。全員が寮生活なのですが、6畳の小さな部屋に身体の大きな学生3人が生活するという環境でした。部屋が狭くて、1年生のうちはタンスすら部屋に置けなかったんですよ。それから、1年生は毎朝8時30分に寮を出て学校に行かなくてはいけないというルールがありました。授業に出席させるためのルールだったと思うのですが、授業がない日も8時30分に出なくてはならず、第一食堂でずっと寝ている部員もいれば東上線をひたすら往復している部員もいました。野球部での生活で楽しい思い出もたくさんありますが、下級生には戻りたくないですね(笑)。

―1989年、大学4年の秋季リーグでついに23年ぶりに六大学野球での優勝を果たしました。

今の六大学野球はどの試合でも比較的観客がいますが、当時はあまり多くなかったんですよ。さらに雨が降ってしまうと本当に少なくて。応援団8名に対して観客が4名しかいないという試合もありました。優勝した時のリーグ戦も最初はあまり盛り上がっていませんでした。それが、勝ち点が増えていくうちに徐々に観客も増えていき、ここで勝てば優勝が見えてくるという早稲田戦は1番盛り上がりましたね。忘れもしない10月10日です。本当に多くの方に応援していただき嬉しかったです。
そして、23年ぶりの優勝したわけですが、如何せん23年ぶりですのでパレードなどのノウハウがありません。以前優勝した時の野球部OBを中心にどのコースをパレードするのか、何を準備すればよいのかなどを決めていったのは大変だったと聞きます。ちょうど巨人が優勝したタイミングと重なって、オープンカーの手配も大変だったそうですよ。その年のパレードでは、東口からビックリガードをくぐり、東武デパートの前を通って大学に行くという平成29年の優勝パレードよりも長いルートでした。紙吹雪も舞って池袋の街中がお祝いしてくださったように感じました。
寮の中でビールかけもやったんですよ。みんな初めての優勝だからビールかけのやり方も知らなくて。ビールかけって、冷たいと泡が出ないんですよ。知らないから、キンキンにビールが冷えていて(笑)。それから、見よう見まねで鏡割りも用意したのですが、普通は割りやすいように予め蓋を開けているなんて知らなくて。みんなで「あれ、割れないね」と樽を叩き続けていました。

101安打

大学時代は101安打を記録

―卒業後は、日本石油(現・ENEOS)に入社され、日本代表としても長年活躍されました。

合計5年間全日本にいましたが、アメリカ、キューバ、オーストラリアなどたくさんの国に行き、世界を見る貴重な機会をいただくことができました。戦争が終わったばかりのニカラグアは、まだ治安が安定しておらず銃をもった人が街中に溢れていました。全日本に選ばれなければ行かなかっただろうという国も多くあり、いい経験をさせていただきました。

―1996年にはいよいよアトランタ五輪に出場されました。

予選リーグでは、初戦のオランダには勝ったもののその後3連敗してしまうんですよね。実は、その時チームの雰囲気はあまりよくなかったんです。私を含めた年上メンバーはメダルを獲りたいという思いが強く、学生を含む若手メンバーはこれをプロへの通過点にしたいという考えでチームに参加していました。各々の目標が定まらず、分裂しているような状況でした。しかし、予選リーグの3連敗で「これはまずいぞ」と気づき、チームがまとまり始めました。今となっては、あの3連敗がチームには必要だったのだと思いますね。

日本代表メンバー
日本代表メンバーと(左から松中、福留、髙林、井口)

―最も印象に残っている試合はどの試合ですか。

やはり、準決勝のアメリカ戦です。それまでアメリカには練習試合で3連敗、予選リーグでコールド負けをしていました。さあ、どうしようかとチームでミーティングをしていると、ある選手が「あのピッチャーはあのボールを投げるときに指が動く癖がある」と指摘したのです。そういった細かい研究が功を奏して準決勝のアメリカ戦は勝利を収めることができました。

―選手村での生活などはいかがでしたか。

食事があわなくて大変でした。野球は長期戦なので1カ月くらい滞在します。私のような年上の選手は海外を何度も経験しているのでまだ耐えられましたが、若い選手は可哀想なくらいで。部屋で日本から持参した栄養補助食品だけを食べているような人もいました。年々食事内容もよくなっているとは思いますが、次の東京オリンピックに出場する選手たちは幸せだと思いますよ。日本は食べ物が美味しいですからね。
ハプニングもたくさんありました。実は初戦のオランダ戦は2時間くらい遅れてスタートしたのです。日本チームが練習している場所に迎えのバスが来なかったんですよ。今の時代だったら考えられませんが、「負けになってしまう!」とチームが大慌てだったことを覚えています。




様々な国際大会を経験した髙林氏

―開会式や閉会式も参加されたのですか。

話し合いの結果、野球チームは翌日の先発ピッチャーをのぞいて開会式に参加しました。日本の他の競技の選手と写真を撮ったり、海外の有名選手を見かけたりと楽しかったのですが、日本が入場するまでが長いんですよ。開会式のおおまかな流れすら知らされていないので、余計に長く感じました。さらに、開会式が終わってからの帰る手段も決められていなくて。そういったこともあり、閉会式には参加しませんでした

―華々しい選手生活でしたが、1997年に引退をされてからは家業の古書店を引き継がれました。今のお仕事はいかがですか。

会社に残ることは考えておらず、引退後すぐに家業を継ぎました。もともと歴史などはあまり好きではなかったので、専門的な知識の習得も引退後に一からから始めました。来店されるのは学生や研究者が多いですね。あまり、立教の関係者はみかけないような気がします。本を眺めているだけでも面白いので、ぜひもっと多くの方にお越しいただきたいなと思います


―2020年の東京オリンピックも楽しみですね。

そうですね。実は、当初お店の目の前がマラソンコースの予定だったのです。残念ながら、目の前でマラソンを見ることはできなくなりましたが、海外の方々が神保町にも足を運んでいただけると嬉しいです

アトランタ五輪
アトランタ五輪では4本のホームランを放った

―最後に、若い世代に向けたメッセージをいただけますか。

今の若い世代は、冷静に自分を分析できている一方で、ここまでと決めてかかっている人が多いように思うのです。現実的でよい面もありますが、もっと大きな目標や夢をもってもいいなと感じています。野球部の現役世代にも、もっと強く優勝を意識してもいいのだと伝えたいですね。強くなりたい、優勝したいと強く望むことで掴むことができるものもあると思います。

―ありがとうございます。世界の舞台を見てきた髙林さんの言葉だからこそ、より学生たちの胸に響くと思います。

インタビュアー

インタビュアー
谷田洋介さん(右/平2営)と川瀬孝治さん(左/平4産)


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