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立教うんちく話

第62回 「Ⅸ. 晩年のウィリアムズ」

1859(安政6)年、30歳にて初めて日本の地を踏んで以来、長年全身全霊をかけて日本に尽くしてきたウィリアムズですが、その彼にもやはり日本を離れる時がやってきます。

ウィリアムズ主教に帰国を決心させた出来事は1908(明治41)年3月彼が79歳の時、大阪梅田にて起こります。
岸和田巡業に赴こうとして、梅田駅で人事不省に陥り、快復後も自分の行き先を思い出せなかったことが、主教にこれ以上牧会・伝道を続けることが不可能であることを悟らせたのでした。

1908(明治41)年4月30日、その岸和田での出来事が起こってからわずか1ヵ月後、ウィリアムズ主教はアメリカへ帰国します。
こんなにも早い帰国を主教に決心させたのは、どのような思いだったのでしょう。
当時の日本聖公会の機関紙「基督教週報」は後にウィリアムズ主教の言葉として、おおよそつぎのような内容の文を掲げています。

「もはや私は老朽し、主の御用に役立たない身体になってしまった。今後、ただいたずらに日本の友の手を煩わすのはしのびない。私が一日早く帰国すれば、それだけ早く新たな宣教師が私の代わりに派遣されるであろう。私は米国にあっても、変わらずに日本のために祈りを捧げよう」

体力の衰えを感じ始めていた時から脳裏に去来していたこの考えが、岸和田の出来事を契機に、動かし難い決意に変わったものに違いありません。
自分の出発が多くの人に面倒をかけるのを恐れたウィリアムズ主教は、帰国の予定を上司であるパートリッジ主教と1、2人の知人以外には誰にも告げることはなかったといいます。
帰国した主教は、しばらくの間、故郷のリッチモンドにある、甥のハリソン氏宅で静かな日々を送りました。

しかし、衰弱が甚だしくなったために、翌年9月に入院、1年3ヵ月後の1910(明治43)年12月2日未明、天に召されたのでした。
81歳の主教は、入院中、意識が不明の状態でありながら日本を忘れず、日本にいる気持ちだったのでしょう。
全く英語を口にせず、日本語を語って看護師を困らせ、日本語で祈りを捧げていたということです。


リッチモンドにあるウィリアムズの墓

『立教の創設者 C.M.ウィリアムズの生涯
-道を伝えて己を伝えず-
立教ブックレット』より一部引用


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