立教うんちく話
第60回 「Ⅶ. 道を伝えて己を伝えず」
「道を伝えて己を伝えず」であまりに有名なウィリアムズ主教ですが、そのことを端的に表しているエピソードがあります。
第7回の今回は、そのお話をご紹介いたします。
1907(明治40)年、京都市五條に竣工した聖ヨハネ教会の献堂式が行われました。
この教会はウィリアムズが、主教の座を60歳で退いてから78歳になるまでのほぼ20年、高齢の体を酷使して布教を続けながら蓄えた資金をすべて投げ出して建てたものです。
献堂式にはウィリアムズの後任者として、第二代日本主教となっていたマキム主教をはじめ、聖職者・会衆170余名が参列し、厳粛な中にも盛大に会は行われました。
しかし、多額の寄付をし、この会の最も重要な出席者であったはずのウィリアムズは大津にいた重病人の見舞いにそっと出かけ、式に姿を現すことはありませんでした。
この献堂式に出席したアメリカ聖公会伝道局総幹事A・S・ロイドは、本国への報告の中でこの時のことを書き綴っています。
そこには、ウィリアムズがマキム主教に対し、献堂式では自分について言及しないようにとのノートを残して、朝早く姿を消したというウィリアムズ主教の行動が記されています。
このことから、ウィリアムズが自らの名前が表に出ることを避け、あえて当日遠方に出かけ、献堂式に出席しなかったのだという事がわかります。 やがて、老齢の為日本を去らねばならない日がやってきた時、その際にウィリアムズ主教が自身に関する日記、記録、資料などの殆どを焼却したというのは皆さんの知るところだと思います。
ウィリアムズ主教は50歳になった時には既に遺書を残し、その中でも、書簡、説教、説教のメモはみな焼却するように書き残しており、徹底して自らの名前が顕れるのを避けようとしていた態度がここからも見受けられます。
ちなみにこの時建てられた聖ヨハネ教会の建物は、現在、愛知県犬山市にある明治村へ移築され、現在も保存・公開されています。さらに、ここには立教大学池袋チャペルの先代のパイプオルガンが引退後移され保存されており、ウィリアムズが繋いだ立教大学との縁を感じます。
立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯
―道を伝えて己を伝えず―
立教ブックレット1 より一部引用>
明治村に寄贈されたパイプオルガン