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立教うんちく話

第58回「Ⅴ ウィリアムズ主教の日常生活」

「自分の体を25ヶ所に分割できれば」非常に忙しい日常生活を過ごしていた主教はこのように語ったといいます。

自らこのように語るほどの主教の日常生活はどのようなものだったのでしょうか?

1880(明治13)年前後の主教の日常の活動は次のようなものでした。

まず立教では、学校管理者としての仕事を行いつつ倫理学と聖書の授業を担当し、1878(明治11)年に開校した東京三一神学校では、週5日間、神学生に対して、聖書に関する講義を行っています。

教会関係では、深川三一教会に週3回、浅草講義所に週2回、相川講義所に週1回、礼拝の司式と説教を行いました。

また日本全国の伝道活動の責任者である主教は、東京のみならず関西や時には清国への出張も行い、さらにはアメリカ聖公会本部との連絡、報告、予算や人事の申請などの折衝も行いました。

そのような多忙な日々を過ごしていた主教の日曜日の様子について、水野重太郎という人がつぎのように回想しています。

監督は、日曜日に、早朝は、立教学院講堂に於て礼拝と説教、それから大橋に行かれ、11時より早祷と説教、同所で2時より晩祷と説教、その後、浅草と神田に回り、夜の礼拝と説教をつとめられ、築地には12時近くでなければ帰れないようでありました。

車に乗られたことは一度もなく、夏でも冬でも、雨でも雪でも、徒歩でした。

このように監督は精力旺盛の方でありました。

これは伝道に対する熱心さから生まれ出たことと、敬服していました。

又別の事ではありますが、ある土曜日、横浜に所用があって行かれましたが、終列車に遅れ、夜通し歩いて東京に帰られました。

これは日曜日には汽車に乗らないという習慣をお持ちであったため、翌日まで待たず、その夜に遠路も厭わず歩行されたのであります。

このように、監督は、ご自分の生き方を曲げずに実行される人でありました。

主教の精力的な伝道活動の様子と、さらにはそれを支えていた強靭な肉体・強い信念がうかがえる話です。

立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯
―道を伝えて己を伝えず―
立教ブックレット1 より一部引用


ウィリアムズ主教が使ったと伝えられるカバン


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