立教うんちく話
第57回『Ⅳ ウィリアムズ主教と学生たちとの関わり」
ウィリアムズ主教は立教学校では、日本語でキリスト教教理を教えていました。
清国での伝道活動のため、日本語を話すウィリアムズが不在になると、学生は彼を恋しがり、彼の帰任と日本語礼拝の再開を知ると、学生達は歓喜したとブランシェーは本国に報告しています。
ウィリアムズが最初に築地に建てた立教学校の校舎が焼失してしまい、新校舎が1882(明治15)年に完成したのち、ウィリアムズ主教はここで学生たちと寝起きを共にしました。
今回はこの新校舎での、主教と学生とのエピソードをご紹介いたします。
ある日、1人の学生がウィリアムズ主教に苦情を訴えました。
学生の居室が3階の北向きで不衛生だ、というのです。
主教は「そうですか、よく考えておきましょう」と答えて、翌日、学生の荷物を2階の南側の主教の部屋に移し、自分は北側の学生の部屋に引っ越したのでした。
これに驚いて失言をわびる学生に対して、主教は微笑みながら、「心配いりません。私の都合でこうしました。
私は、夜6、7時間寝るだけです。
眠る間、光線はいりません。
あなた方学生は勉強のため多くの時間部屋におりますから、光線や空気の良い所を望むのは当然です。」と言いました。
学生達は主教の心づくしに皆泣いたということです。
この時主教に部屋の改善を訴えた学生、名出保太郎(ないでやすたろう)はのちに、キリスト教の聖職者となり、初めて日本人として2人の主教が生まれた際の1人となります。
ウィリアムズ主教は、このように自らの行いを通し、日本人学生たちに影響を与え、彼らの成長を見守っていたのです。
立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯
―道を伝えて己を伝えず―
立教ブックレット1 より一部引用
ウィリアムズの出席簿
生徒と起居を共にしていた当時の出席簿
細かい字で記入されている
初の日本人聖公会主教の二人
左が元田作之進 右が名出保太郎