立教うんちく話
第56回「Ⅲ 立教学校の設立」
1867(慶応3)年、日本で大政奉還が行われたことを知ったウィリアムズは、日本での伝道の可能性を感じ、中国から、日本の通商の中心地であった大阪へ移り住みます。
さらに行われた切支丹禁止の高札の撤去を受け、彼は活動の中心と首都に置くべく、大阪から東京へ移りました。
ウィリアムズ主教が立教学校を設立したのは1874(明治7)年2月、東京移転後、わずか3ヶ月のことです。
そのすばやさからは、彼の学校設立への情熱や行動力がうかがわれます。
日本人にキリスト教を広めていくのは、日本人聖職者によるべき
というウィリアムズ主教の考えのもと、日本人聖職者の育成を目的として立教学校は設立されたのです。
築地の居留地の一角に建てられた立教は、校舎ともいえるほどの施設もなく、校則はおろか校名さえなく、単に「ボーイズスクール」という呼称の元にたった8名(5名という説もあります)で始まりました。
教師は、学校設立者のウィリアムズと校長のブランシェーの二人、聖書と英語を教える小さな私塾でした。
この小さな学校も発足翌年の1875(明治8)年には、「立教学校」の校名が新聞紙上にも見られるようになり、この名称が命名され定着したことがわかります。
それとともに、学生数も徐々に増加するようになります。
しかし、順調に思われた学校運営も発足2年後の1876(明治9)年11月、校舎が火事により全焼するという災難に見舞われます。
この際、在校生55名のうち46名が寄宿生であった学生達は焼け出されてしまったのです。
そうしてしばらくの間、学校閉鎖を余儀なくされます。
この際、土地の購入や建設に多くの費用が必要となり、ウィリアムズ主教は多額の私財を投じ不足分に充てます。
この時校舎と寄宿舎を兼ねた本建築が建てられ、学校発展の基礎が築かれたのです。
主教が「立教学校」に英名「セント・ポールズ・スクール」を命名したのはこの頃のことです。
立教学校の開業広告
1876(明治9)年2月10日開業を告げる『東京曙新聞』の広告
カリキュラム、授業料などが記されている
ウィリアムズ書簡
1874(明治7)年2月4日付
立教創立を米国聖公会に報じたもの
立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯
―道を伝えて己を伝えず―
立教ブックレット1 より一部引用