立教うんちく話
第55回「Ⅱ キリスト教禁止下のウィリアムズ」
1859(安政6)年、ウィリアムズとリギンスは長崎に上陸します。
二人は、長崎の街中にある祟福寺(そうふくじ)の境内に住みました。
ところが、中国で受けた暴力とマラリアによって衰弱していたリギンスは、来日して間もなく本国へ帰ります。
翌年派遣された別の宣教師も体調を崩してしまい、ウィリアムズは結局一人きりでの長崎滞在を余儀なくされます。
文明開化を旗印に掲げて発足した明治政府になっても、キリスト教に対する政府の方針は変わらず、日本での宣教活動は禁止されていました。
本国のアメリカでは南北戦争が起こり、日本では幕末の動乱で情勢が混沌とする中、ウィリアムズはひたすら祈りを捧げながら日本語の学習に励み、布教ができるようになる日を待ち続けます。
この間、ウィリアムズはキリストに関する書物の翻訳を進め、日本の宗教についての研究も行っています。
また、集まってきた幕府の役人、武士、医師、僧侶などの日本人に英語を教え、世界情勢についても彼らに話して聞かせました。
その中には、後に日本の郵便制度を創設した前島密や、大隈重信など明治維新以後の日本社会で重要な活躍をするようになる人物も含まれていました。
このような状態は、ウィリアムズがアメリカ聖公会からの連絡を受けて一時帰国をする1866(慶応2)年まで、7年もの間続きました。
この時帰国したウィリアムズは「中国伝道主教」に選出され、清国・日本の伝道活動の全責任を負うポストに任命されます。
この後、ウィリアムズは清国に拠点を移し、布教に尽力するようになります。
1867(慶応3)年の大政奉還を経て、日本は近代国家への歩みをさらに進めます。
そして1873(明治6)年、とうとう日本は欧米諸国の主張を受け入れ、キリスト教禁止の高札を廃し、キリスト教を認めます。
再来日していたウィリアムズが、立教開学をするのがその翌年1874(明治7)年、初来日の時30歳であったウィリアムズは、この時45歳になっていました。
立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯
―道を伝えて己を伝えず―
立教ブックレット1 より一部引用
ウィリアムズの描いた仏教図
ウィリアムズの日本語練習ノート