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立教うんちく話

第54回「I 若きウィリアムズ伝道活動の開始」

東洋伝道への強い使命感を胸に秘めた二人の若い宣教師、ウィリアムズと彼と神学校で同級生であったリギンスは1855(安政2)年11月末、ニューヨークを出航しました。

7ヶ月にも及ぶ長く困難な航海の末、二人は中国伝道の拠点であった上海の地を踏みます。

布教活動を始める前に、彼らがまず始めたのは中国語を学ぶことでした。

彼らは朝5時半に起床し、黙想・礼拝を行ったあとは教師に習い、一日中のほとんどを中国語の勉強に費やしました。

猛烈な特訓の結果、一年半後には日常会話はもちろんのこと礼拝や説教も中国語で行えるようになり、英語の書籍を中国語に翻訳する作業をもこなすようになります。

その上達ぶりは、多くの中国人を驚かせたといいます。

こうして中国語を会得し、準備を済ませたウィリアムズらは、長江(揚子江)下流域の巡回伝道を開始します。

当時の、中国(清)はアヘン戦争後の南京条約で開国していたものの経済は疲弊し、欧米人に対する中国人の感情は極めて悪い状態でした。

そのため、キリスト教の宣教師たちが布教活動を行うには命がけの覚悟が必要で、事実、ウィリアムズらも民衆からの妨害を受け、時には暴力的な攻撃をうけています。

ウィリアムズらが中国で過酷な布教活動を行っていた一方、その頃日本では1858(安政5)年に「日米修好通商条約」が結ばれ、日本は6つの港を開き、外国人の居留地内での信教の自由と礼拝の自由を認めました。

(外国人が外国人居住地内でキリスト教に関する活動をすることを認めたもので、日本人へのキリスト教禁止政策は変化しませんでした。)

これにより、外国人宣教師が来日する条件の一つが整い、このことを受けて、この年から外国人宣教師の日本への渡来が増加します。

そういった情勢の中、日本伝道の命を受けたウィリアムズとリギンスは、幕末の1859(安政6)年、鎖国政策の実施以来初めて日本にやってきたプロテスタント系教派の宣教師となったのです。

立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯
―道を伝えて己を伝えず―
立教ブックレット1 より一部引用


ウィリアムズが使用した新約聖書


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