立教うんちく話
第51回「立教ヶ原」
みなさまは、「立教ヶ原」という言葉を聞いたことはありますか?
これは、明治末ごろから大正初期頃、いまの立教の池袋キャンパスあたりを近隣の方々が呼んだ名称で、当時の地図にも記載されています。
これは、タッカー主教がこの池袋の地を購入してから、工事を開始するまでこの地が長い間原野として放置されてきたことを端的に表しています。
タッカー主教は彼が著した『思い出の静かな岸部を尋ねて』の中で、かつて自分が家族に出した手紙の文面を一部引用し、池袋の土地に関してこう語っています。
今日は素晴らしい春日和です。
幸いにも新たに手に入れた大学の用地で数時間を過しました。
ここは一面麦畑で、6インチばかりに伸びた大麦は奇麗な絨緞を敷きつめたようでした。
遥か彼方に雪に覆われた富士山や甲州の山々が素晴らしい絵のように見えました。
ここは築地と全く対照的で、私は一刻も早くここに移りたく思いました。
立教大学が築地から池袋に移転したとき、この辺りは、「東京府北豊島郡西巣鴨村大字池袋」と言いました。
あたり一面は畑で農家が点在する自然豊かな、まさに「紫匂へる武蔵の原」でした。
デパートが立ち並び、繁華街が広がる現在の様子をタッカー主教がご覧になったらどんなに驚かれることでしょう。
立教が原 地図
1916(大正5)年池袋近辺の地形図
立教が原 原っぱ風景
1916(大正5)年建築前の立教大学敷地