立教うんちく話
第50回「立教大学キャンパス用地購入」
タッカー主教
築地で始まった立教が、池袋に移転してきたことはみなさまもよくご存知のことでしょう。
今回は、その用地購入資金にまつわるお話しをしたいと思います。
1907年(明治40)、立教大学が設立され、大学の発展の基礎を作るため、タッカー主教は築地から移転する土地を探します。
1907年に池袋駅ができてから、教育機関や学校が建ち始めていた池袋に彼は目をつけました。
しかし、彼はまずは用地購入のための資金を集めることから始めなくてはならず、大変苦心されました。
募金を集めるため、タッカー主教は本部の許可なしに単身帰国します。
ところが、なかなか募金の成果はあがりませんでした。
帰国直後に有力者として紹介されたコールズ夫人が、すでに他の募金活動に専念しているから協力は難しいが、とにかく復活節前の週に自分を訪ねるようにと言われた言葉を頼りに、彼はコールズ夫人の家を訪ねたのです。
夫人は、彼に一週間滞在して、毎朝使用人たちと一緒にしていた家庭礼拝で講話をするように頼みました。
彼はこれを熱心に行ったのですが、ついに一言も募金のことについてコールズ夫人に話を切り出すことができなかったのです。
いよいよ最後の日となった時、彼は夫人の部屋に呼ばれ、「この一週間、あなたをよく観察していましたが、あなたのような人柄ではお金が集まりそうもないことがよくわかりました。私が代って集めてあげましょう。」
と言われたのでした。
こうして、半年後には約束の金が送られ、1909年現在の南側校地が手にはいったのです。
この後さらにタッカー主教のもとで、校舎建設の為の募金活動が続けられますが、工事に着工しできたのはその7年後の1916年(大正5)のことでした。
タッカー主教は、資金の調達と設計者の決定が行われた直後に、京都教区主教に選ばれ立教学院を去ることとなります。
全ての準備のために奔走しながらも、彼は最終的な完成を自ら成し遂げることはできませんでした。
しかし、彼が立教の基礎を作ったことは確かであり、彼の人柄や教育に掛ける熱意がコールズ夫人のような支援者を引きつけていったことは紛れもない事実だと言えるのでしょう。
1914(大正3)年に描かれた池袋キャンパスの予想鳥瞰図
学院総理邸(現ライフスナイダー館)
大学本館(図中央)・チャペル(右)・図書館(左)の完成予想図