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立教うんちく話

第16回 「ポール・ラッシュ博士(Paul Frederick Rusch 1897-1979)」

NFLフラッグフットボール日本大会で見事優勝を果たし、北京で開催される世界大会への切符を獲得した立教中ラッシャーズ・フットボールクラブ・ジュニア。
フラッグフットボールとは、サッカーにフットサルがあるように、アメリカンフットボールを手軽に楽しむために誕生したスポーツです。
「タックル」する代わりに腰から下げた「フラッグ(細長い旗)」を奪って敵の前進を止める、安全で、男女、年齢に関係なく楽しめるスポーツとして、その輪は広がりつつあります。
このフラッグフットボールの基となるアメリカンフットボールを日本にもたらし、後に「フットボールの父」の称号を贈られたポール・ラッシュ博士。
スポーツを通じた日米青年の親善と平和を願った博士の歩みをたどってみましょう。

ポール・ラッシュ氏

フットボールの父・ラッシュのRuschと「邁進」を意味する英単語「Rush」に由来するチーム名を持つラッシャーズ・ジュニア。
北京での活躍がおおいに期待されるところです。
Do your best, and it must be first class!!

アメリカ・インディアナ州フェアマウントに生まれ、ケンタッキー州で育ったラッシュは、1925年、関東大震災で破壊された東京と横浜のYMCA(キリスト教青年会)会館の再建委員の一人として、28歳の時に初来日しました。
翌年、任務を終え、婚約者の待つ母国への船便の予約までしていたラッシュでしたが、当時の立教学院理事長ジョン・マキムらの熱心な説得により、立教大学の教授となりました。

時には教室を離れ芝生の上や藤棚の下で授業を行うラッシュは、その若さと人柄もあり、兄のような存在として学生に慕われました。
教師であると同時に宣教師でもあった彼は、1927年の日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)の発足、翌年の日本聖路加国際病院建設のための募金活動などに従事しました。
また、戦後日本の復興モデルとなる、清里での農村コニュニティー(KEEP)建設は、広く知られています。

1934年、東京アメリカンフットボール連盟を設立、11月29日、明治神宮外苑競技場で日本初の公開試合を開催し、日本のアメフトを正式に誕生させました。
生活環境や習慣の違いなどに苦労していた海外留学生を励ますためのことでした。
戦中は廃止されていたアメフトでしたが、戦後、ラッシュの呼びかけにより復活し、1948年には宿願の全日本(東西選抜)大会が明治神宮競技場で開催され、始球式は再来日していたラッシュが行いました。

この大会は、日本人の主食にちなみ「ライスボール」と名づけられ、1984年、その名は日本選手権大会へと引き継がれ、同時に、最高殊勲選手に贈られる「ポール・ラッシュ杯」が設けられました。
最善を尽くせ、しかも一流であれ(Do your best, and it must be first class)、尊敬するトイスラー博士(聖路加国際病院創立者)から伝授されたこの教えを忠実に守り、日本を愛し、人々に希望を与え、日米の友好にも尽力したポール・ラッシュは、1979年、聖路加国際病院のベッドの上で82年の生涯を閉じました。


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