立教うんちく話
第9回 「ウィリアムズ主教 Channing Moore Williams(1829~1910)」
道を伝えて己を伝えず。日本聖公会初代主教であり、立教の創立者であるウィリアムズ主教を語る時、この言葉がよく用いられます。神の福音以外に自分の名が残ることを恐れ、写真を撮らせることもなく、日記や手紙の類を多くは焼却してしまったといわれています。
真の信仰者としての道を貫いた主教の生涯をあらためてご紹介しましょう。
ウィリアムズは、1829年7月18日、弁護士ジョン=グリーンとその妻メリー=アニーの第5子として、米国・ヴァージニア州の州都リッチモンドに生まれました。
熱心な信徒であった両親は、生まれたばかりのウィリアムズを教会に連れて行き、教区主教リチャード=チャニング=ムーアによって洗礼を授けてもらい、その尊敬する牧師の名を洗礼名としました。
幼くして父を亡くしたウィリアムズでしたが、信仰心の篤い母メリーのもと青年期を迎え、ウィリアム・メリー大学を卒業し、1852年、ヴァージニア聖公会神学校に入学しました。
米国聖公会の海外伝道が盛んになると、中国(当時の清)への派遣を志願、上海へと渡りました。
1855年、26歳の時のことです。
やがて「日米修好通商条約」が結ばれ日本が五つの港を開くと、かねてより日本伝道を急いでいた米国聖公会により、ウィリアムズは、日本へ派遣されることとなり、1859年6月、長崎港より来日しました。
偉大な志を持って伝道に従事したウィリアムズは、1874年、東京・築地に英学と聖書を教える私塾を開きました。わずか数人の生徒で始まったこの小さな学校「立教学校」が、立教大学のはじまりとなりました。
1887年、尽力の末、日本聖公会を組織しますが、その2年後には、本来の福音の伝道に打ち込みたいとの思いから主教(監督)の職を辞し、その後は、一介の宣教師として、老躯にむち打ち、地方への布教を続けました。
1908年、50年の間全身全霊を捧げ尽くした、愛する日本を離れ帰国し、翌々年、故郷リッチモンドで永眠されました。81歳でした。
ウィリアムズ主教の眠るリッチモンドのホーリーウッド墓地には、1913年、主教を慕う日本聖公会の有志により追慕碑が捧げられました。
その碑面には「道を伝えて己を伝えず」と刻まれているのです。
ウィリアムズ主教像
ちなみに、池袋キャンパスのウィリアムズ主教像は、1967年、彫刻家・三坂耿一郎氏(日本芸術院会員)により制作され、校友会によってチャペル前庭に建立されました。