立教タイムトラベル
第48回 「1956(昭和31)年、セントポール・グリーンハイツ完成」
都心にある学校の悩みの代表的なものは、「広いグラウンドがない」ということかもしれません。立教大学もその例外ではなかったようで、55年前の校友会会報「セントポール」には、次のような嘆きが記されています。
「立教大学にはグラウンドと名のつくものは一つしかなく、それも約2,000坪というせまいもので、 その一つのグラウンドに陸上競技、ラグビー、ホッケー、サッカー等各部がつめかけ大混雑、 野球部だけが豊島区東長崎にグラウンドを持っているが他の31の運動部(約1500人)は“雑居練習”をきらい、 民間会社のグラウンドを借りて練習をつづけて来た」 (会報「セントポール」第25号、1956年8月21日発行)
その立教大学が、校外に35,000坪もの広大な総合グラウンド「セントポール・グリーンハイツ」を完成させ、 1956年11月13日に落成竣工式が行われました。学院関係者だけでなく、文部大臣や東京都知事、 グラウンドのある板橋・練馬両区長などが祝詞を述べるなど、盛大に行われました。
空から見たセントポール・グリーンハイツ
セントポール・グリーンハイツの地図
落成竣工式の様子
グラウンド用地で遺跡発掘
セントポール・グリーンハイツのグラウンド用地は、考古学史上重要とされる「栗原遺跡」と呼ばれた一帯であったことから、立教大学文学部史学科が調査の必要性を訴え、他大学や周辺の中学・高校などの協力を得ながら発掘調査を進めました。その結果、石器や鉄製品だけでなく、15個の竪穴住居跡が発見されました。竪穴住居は復原され、グラウンドの敷地内に保存されました。
竪穴住居復原の過程
(『栗原 ―セントポール・グリーンハイツ内遺跡発掘調査報告 1955~1956』 立教大学文学部編)
セントポール・グリーンハイツから城北中央公園へ
セントポール・グリーンハイツは、1970年に東京都へ土地を返還するまでの14年間、立教大学のグラウンドとして学生や地域住民に親しまれました。現在は、東京都立城北中央公園として、引き続き市民の運動場、憩いの場として利用されています。
なお、復原された竪穴住居は、現在でも公園内で見ることができます。