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立教タイムトラベル

第36回 「1945(昭和20)年、第22回卒業式」

本学主催の出陣壮行会

長かった戦争もようやく終わりをつげた1945(昭和20)年9月13日、本学の第22回卒業式が行われました。

1937(昭和12)年7月7日に日中戦争がはじまってから戦火はひろがるばかりで、遂に太平洋戦争へと拡大し、長くてつらい悲惨な毎日にピリオドがうたれたのは、1945(昭和20)年8月15日でした。

本学の校舎など大部分の建物は幸い戦災をまぬがれ無事でしたが、敗戦直後の混乱期のただなかの卒業式でした。

すでに文学部は閉鎖されていたので卒業生は経済学部商学科と経済学科の37名の学生のみでした。

1943(昭和18)年10月21日に神宮競技場で学徒出陣が行われており、11月23日には本学主催の出陣壮行会が学内でも挙行されたといわれています。
いったい何人の卒業生たちがこの式典に参加できたのでしょうか。

記録によるとこの日の卒業式の案内状は、本人にも保証人にも発送しなかったそうです。

戦争の爪あと

スクリーンがあった頃のチャペル

戦後のチャペル

幸いにして、立教大学の主要な建物は焼失を免れましたが、決して爆撃の対象にならなかったというわけではありませんでした。
事実、校地の西側には焼夷弾が落下したようで、現在の17号館および学院事務棟のエリアにあった職員住宅などが焼失。

また、通りを隔てて、立教の北側に位置していた聖公会神学院(現在の立教池袋中学校・高等学校の場所)と池袋第五国民学校(現在の大学5号館の場所)は、ともに爆撃によって全焼しました。

レンガ校舎群をはじめとした主要施設が焼失を免れたのは、このような状況から考えると、ある意味奇跡的なことであったのかもしれません。

空襲という戦禍による施設への被害は軽微であったものの、この戦争によって、学内諸施設は、さまざまなかたちで荒廃をしていました。

1941(昭和16)年から施行された金属類回収令によって、鉄製だった門扉は木製へと変わり、食堂と2号館、3号館に囲まれた芝生には、空襲に備えるための防空壕が数箇所掘られ、さらに、2号館、4号館は軍による接収をうけて、それぞれ陸軍造兵廠の病院、築城本部が置かれていました。

こうした中にあって、もっとも被害の大きかったのが、チャペルでした。
防空壕を作る際、その掩蓋の資材が不足していたことから、チャペルの椅子がそれに充てられたのです。
しかし、実際には、椅子のみならずスクリーンまでもが誤って撤去され、その材料とされてしまったそうです。

                                

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