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Alumni Special Interview 被災地とつながる立教人

この10年、毎日ただ前だけを見て歩いた。

陸前高田市在住 河野和義さん(昭44法)


ただテレビで見ていることしかできなかったあの日。

陸前高田市にはけんか七夕という900年続く伝統的なお祭りがあります。そのお囃子を「けんか七夕太鼓」と言います。その太鼓の伝統を守り、普及させる活動として1989年から全国太鼓フェスティバルを陸前高田市で開催していました。その関係で2011年3月11日は、会議のために東京にいたんです。どういうわけか、その日に限って会議が早く終わってね。もともと15時40分東京発の新幹線のチケットを持っていたのですが、急いで買い替えて14時40分の新幹線に飛び乗りました。その新幹線は14時43分に上野を出発。14時46分に地震が起きた時はトンネルの中にいました。しばらく新幹線の中に閉じ込められていたのですが、どうにかこうにか外に出られて駒込にある妹の家に泊めてもらうことができました。そして、テレビで流れる津波の映像を目にしたのです。昭和35年にもチリ地震がありましたよね。遠く離れたチリから来た津波で三陸地域は大きな被害に遭いました。僕は立教高校出身だったので、このときも地元にはいませんでした。埼玉の寮のモノクロテレビで地元が津波に襲われていくのを見ていたんですよ。そして、今回も。何もできずに、ただただテレビを見ていることしかできませんでした。

河野さん 200年の伝統が途絶える覚悟をした。しかし、息子はすでに前を向いていた。

震災から4日後に、友達から車を借りて地元に戻ることができました。この間、電話も通じないので家族の安否はわかりません。もう家族はいないだろうなと諦めていました。それでも、避難するとしたら多分ここだろうという場所に行ってみると、幸運なことに家族全員が無事だったんです。ただ、お店も工場も、長年積み重ねてきた「もろみ」も全て流されてしまってね。200年続いた醸造屋だけれども僕の代で終わりだなと覚悟を決めました。ところが、息子は違ったんです。震災から1か月後、再建できる見通しも全くつかない状況だったのに跡を継ぐと僕に伝えてきました。全てを失ったばかりだったのに、すでに前を向いている息子を本当に誇らしく思いましたね。

河野さん
人とのつながりに支えられた10年。

震災が起きてからは、数えきれないほど多くの人に支えてもらいました。例えば、震災前にとある雑誌のインタビューを受けたことがあって、被災を知った記者の方が「このお店も被害にあったけれど頑張っている」と再度記事を紹介してくれたんです。それを読んだ約7,700名もの方が激励のお手紙や寄付を送ってくださって、お店を再建する大きな力になりました。また、学生時代の同期も精神的にも物理的にも応援してくれて、人とのつながりは僕にとっての財産だと改めて感じました。この3月であの震災から10年が経ちます。矛盾しているようですが、長かったけれどあっという間だった、そう思います。毎日、想定していなかった様々な事が起きました。でも、ただひたすら前を向いて歩いてきました。前を向くしかなかったんです。その結果、今こうしてお店も再建することができました。本当に全てのことに感謝ですね。

<八木澤商店の奇跡>

八木澤商店は江戸時代中期に創業しました。屋号は「ヤマセン」、酒造業としてスタートし、戦後は味噌・醤油製造を専業としています。200年の歴史をもつ八木澤商店でしたが、東日本大震災による大津波によって、自宅や工場、店舗はすべて流されてしまいました。しかし、八木澤商店の従業員は「200年の御礼に」と、手元に残った物資を家が残った人たちへ戸配し始めます。ある従業員は戸配先で「何もなくなった八木澤商店がなぜ家が残った私たちにここまでしてくれるのか。さすが八木澤だ」と泣かれたと言います。八木澤商店の従業員の多くが自分たちも家を流されたり家族を失ったりしていました。しかし、戸配を開始した従業員に次第に笑顔が戻ってきました。それを見た河野さんは「この従業員を簡単に解雇するわけにはいかない。息子と一緒に、自分もやれるだけのことをやろう」と決心します。従業員の解雇は、被災した従業員から仕事だけでなく人との繋がりまで奪うことだと考えたからです。その後、八木澤商店はひとりも解雇することなく営業を再開しました。河野さんは「形が有る財産はすべて流されたけれど、人との繋がりが一番の財産だ。200年の歴史で培った人との繋がりを大切にしながら、新たに出来た人との繋がりを大切にしていきたい」と話します。

河野さん

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