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Alumni Special Interview 

観光は地方の元気を作り出せる産業です

加賀屋相談役 小田禎彦さん(昭37営)

創業明治39年の老舗旅館「加賀屋」。「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で40回も1位に輝いたことがある加賀屋のおもてなしは、業界でもその名を知られています。その加賀屋の”のれん”を守り続けてきた小田禎彦さん(昭37営)は81歳になった今も現役です。大学卒業以来60年近くもの長きに渡り、加賀屋、和倉温泉、そして日本の観光業のために奮闘し続けてきました。

小田さん
おだ・さだひこ 昭和15年石川県生まれ。
昭和37年3月立教大学経済学科卒業後、加賀屋に入社。
昭和54年に代表取締役社長、平成12年代表取締役会長に就任。
平成26年から代表取締役相談役に就任後現在に至る。

●温泉街で生まれ育ち、観光業を学ぶために立教へ●

和倉温泉で生まれ育ったので、小さい頃から大人がお酒を飲んで宴会をしている姿は日常風景。両親は子どもがお酒の場を見慣れて、悪い道に走ってしまわないかと心配したのでしょうね。中学で親元を離れ、当時「堅い仕事」の代名詞でもあった銀行の支店長の家に預けられて金沢市内の学校に通いました。昭和20年代は、銀行の支店長の家でも玉子焼き一つめったに出ないような貧しい時代。親元を離れた寂しさに、質素な生活もあいまって、家に帰りたくて仕方がなかったことを覚えています。
そのような中学高校時代でしたが、4人兄弟の長男だったので旅館の跡を継ぐためにも大学に進学することは決めていました。進学先を考え始めたとき、父親が立教出身者のお店が繁盛しているという新聞記事を見つけてきたのです。ちょっとした記事だったのですが、それ以来「観光業を学ぶために立教へ行け」と。それまで勉強をしてこなかったので、家庭教師も付けて必死に勉強し、やっとの思いで立教大学経済学部に入学しました。


●大学時代に初めて足を踏み入れたホテル●

学生時代に何よりも力を入れたことはホテル研究会での活動です。大学生になって初めてホテルという場所に足を踏み入れたのですが、実家の旅館とは違うホテルの雰囲気に圧倒されたことを覚えています。具体的には「配膳会」に所属して、文字通りお客様への配膳方法から基本的なナイフとフォークの使い方まで学びました。一般家庭ではナイフとフォークなんてほとんど見かけない時代でしたから、配膳方法以前にどう使っていいかすら全く知らなかったのです。パンをナイフで切ろうとして笑われてしまったくらいです(笑)。また、2、3年生の夏休みには、兵庫県の六甲山ホテルで住み込みのアルバイトをしました。当時は1日働いて230円。ホテルのページボーイやジンギスカンレストランのスタッフ、電話の交換手など色々な仕事を体験させてもらいました。仕事の昼休み中ににんにくを食べてしまい、「くさい」と怒られたこともいい思い出です。
私が卒業したのが、1964年の東京オリンピックの前々年。オリンピックに向けて日本中の観光業界が盛り上がっていた時代なので、卒業する頃にはホテル研究会も120名近い大所帯となりました。それから、これは絶対に言わないといけないことですが、妻もホテル研究会のメンバーでした(笑)。1つ上の先輩だったのですが、観光業界について研究する観光総合調査の活動で一緒になり、縁あって能登まで来てくれることになりました。

六甲山ホテル
「六甲山ホテルでのアルバイト。右から2番目が小田さん」
渚亭オープン
「昭和56年、能登渚亭オープン時の写真。
左から4番目の着物の女性が女将の真弓さん(昭36日)」

●40回の日本一。母のお客様に対する姿勢が今の加賀屋の原点●

ありがたいことに、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で40回も日本一をいただくことができました。おもてなしを評価いただいたのですが、その原点になったのは母の「いつもお客様の満足を第一に」という接客姿勢です。母は、到着からお帰りまでに10回お茶を入れ替えることをモットーとしていました。今の時代に10回もお部屋に入ってお茶を入れ替えていたら、プライバシーの侵害だと言われかねませんが、それだけお客様に寄り添った接客をするということです。
「お客様にもう一度来てもらうためにはし過ぎるくらいのサービスで良い」という母と、「飴に砂糖をつけるようなサービスをしていたら赤字になってしまう」という父とでよくケンカをしていたものの、結果的によいサービスだとお客様に印象付けることができました。


加賀谷
「七尾湾を一望する加賀屋」

●おもてなしか、効率か●

大学でホテルを学んできたからこそ、家業の旅館とのギャップには今も悩まされています。例えば、ホテルの場合お客様ご自身がレストランへ移動して食事をし、ベッドがあるので布団を敷きに行く必要もありません。しかし、旅館の場合、同じ空間をくつろぐ場所、食事をする場所、寝る場所として使うため、その都度スタッフがお部屋を整える必要があります。お部屋に入った時からずっと布団が敷いてあると、万年床になってしまいますからね。つまり、レストランなどの施設をつくるハード面での初期投資は高くなりますが、スタッフの業務量を考えるとホテルの方が圧倒的に効率がいいんです。一方で、お客様は旅館流のおもてなしを求めていらっしゃる。おもてなしを貫くか、効率を求めるか、答えのない問いを常に突きつけられているようです。


●コロナ禍以前に押し寄せた働き方改革の波●

また、旅館のサービス提供方法では、食事時間も布団を敷く時間も夕方以降に作業が集中します。時間帯によってスタッフの業務量に大きな差が生じることも大きな課題となっています。これまでは、長時間勤務が当たり前になっていたため顕在化しませんでしたが、「働き方改革」が叫ばれるようになった今、1人8時間の勤務時間内にいかに効率よく働いてもらえるかを考えることも旅館を経営していくうえで重要な視点になりました。コロナによって働き方が大きく変わったと言われていますが、旅館業界にはもっと前から働き方改革の波が押し寄せていたのです。今は、旅館の仕事が落ち着く時間帯に近くのお菓子工場を手伝うなど、業種を広げることでどの時間帯も効率よく働ける場所づくりを始めました。アフターコロナとのんびり待っていられないのです。コロナ禍でもどんどん前に進んでいかなければいけない、そう思っています。


協定締結
2021年3月には金沢大学と立教大学の協定締結にご尽力くださいました

●やっと長年の苦労が実を結び始めた●

観光業界は新型コロナウイルスの大きな打撃を受けました。しかし、国が2.7兆円ものお金を投入してGoToキャンペーンを実施したということについては、感慨深いものがありました。国も社会もやっと観光業の可能性の大きさに気づいたのか、と。
例えば、お客様が旅館に支払ったお金が、すべて旅館に入るかというとそうではありません。一旦は旅館に入っても、人件費や旅館の利益をのぞいた多くは電気代、ガス代、食材費、広告宣伝費などへの支払いに充てられます。つまり、旅館を経由して地元のさまざまな産業にお金が流れていくのです。観光で旅館に人が集まるということはその地域全体の活性化につながっているということを国にも社会にも認識してもらえたようです。
私はスタッフに、「観光というのはお客様の、そして地方の元気を作り出せる産業だ。そしてその役割の一端を担っているのはあなた達なのだから、誇りを持って働いてほしい」と常日頃話しています。私の幼少期は「観光なんて人を遊ばせるための産業だ」と言われていました。長い年月はかかりましたが、今やっと、長年の苦労が実を結び始めたと感じています。



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