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Alumni Special Interview 

寄り道しても。「譲れないもの」を持ち続けて、生きる

服部幸應さん  料理研究家・教育者

蔦の絡まるチャペル佇まいに惹かれて

●ゴルフに服飾、麻雀…大らかな学生時代

大学入試の前に、いくつかの大学に見学に行きましてね。立教大学は駅から近いし、何より、伝統を感じさせる正門の佇まい、蔦の絡まるチャペルを見て、「あ、いいな」と思いました。今も好きですね、あの雰囲気は。
入学したら、受験会場で席が前後だった3人と、偶然にもクラスが同じで。しかも全員、麻雀好き。で、結局、彼らとは卒業するまでよく一緒に遊んでいました。教室よりも、雀荘で顔を合わせることが多かったかな(笑)。
サークルは、ゴルフ同好会と服飾研究会に入りました。もともとファッションに興味があって、「ヴァンヂャケット(VAN)」の創業者である石津謙介さんと親しくさせていただいていたこともあり、自分がデザインした服を見ていただたりしていたんです。「こんなの使えないよ(笑)」と言われましたが。
私のトレードマークになっているスタンドカラーの服も、もともとは自分でデザインして、うちの学校の制服をつくってくれていた職人さんに縫ってもらったのがはじまり。以来、ずっと着続けています。
服好きなのが何となく伝わったのか、服飾研究会には勧誘されて入ったんです。とはいえ、ファッションを職業にしようとは思いませんでした。少々、自分勝手に生きていたところもあり、洋服はあくまで趣味というか、“こだわり”の一環と捉えていました。服にしろ食にしろ、今も昔も、何かにこだわるのが好きだし、こだわらずにいられない性分なんでしょうね。

服部さん

「Mr.Shokuiku」の愛称で呼ばれて

●世界の潮流に先駆け「食育」の大切さに着目

大学を卒業後、しばらく立教大学とはご縁がなかったのですが、2003年11月に、大学の全学共通カリキュラムで「身体知をさぐる」という科目の講師を務めました。テーマは、私のライフワークである「食育」についてです。
実は私が「食育」について考え始めたのは、今から35年程前になります。日本の教育の柱である、「知育」、「体育」、「徳育」に続く、4本目の柱として、「食」が重要であろうと考えたのです。
最初に「食に関する法律をつくりたい」と掛けあったのは、故橋本龍太郎総理大臣。1998年のことでした。その後、故小渕恵三氏、森喜朗氏と歴代総理に「食育」の大切さを訴え、ようやく「食育基本法」が公布されたのが2005年。小泉純一郎総理のときでした。以来16年間、農林水産省による「食育推進会議」の委員、「食育推進評価専門委員会」の座長を務めています
「食育」といっても、皆さん具体的なイメージが湧かないかもしれませんが、実際には貧困問題や食料自給率、エネルギー問題、海洋汚染など、経済や自然の問題を地球規模で考えねばならない、非常にダイナミックな活動です。日本では、食料生産や自給率、安全性は農林水産省、小学校など、現場での食の教育は文部科学省の担当です。そして国民の健康づくりに関しては厚生労働省と、非常に多くの省庁が関わる分野です。
「食」という問題を広範囲に検討し、省庁の壁を取り払って、日本人の「食」に対する意識を高めていくこと。これが「食育基本法」の目標です。

●食育の活動を通じSDGsへの意識向上を

一方で世界に目を向ければ、皆さんもご承知の通り、2015年9月の国連サミットにおいて、「持続可能な開発目標(SDGs)」が採択されました。SDGsとは、193の国が同意した、持続可能な世界を実現するための17の目標です。2030年までの15年間で目標値を達成することを約束しています。実はSDGsが掲げる「食」、「健康」、「教育」などの諸問題は、育基本法のもと、私たちが取り組んできた要素と全てが合致するのです。現在、「食育推進基本計画」は第4次5カ年計画として進められていますが、今後はSDGsと組み合わせた形で推進していく予定です。
まずはSDGsの17の目標を示すアイコン──日本人が発明したピクトグラムと呼ばれるものですが──これを使って、これまで文字だけで表していた食育推進基本計画の目標をわかりやすく“見える化”していこうと考えています。
前述の通り、日本では実に16年前から「食育基本法」が公布されていたにも関わらず、現状、SDGsに対する認知率は15%程度に過ぎません。世界的な水準からすれば、「日本はSDGsについて最も遅れている国」と言わざるを得ない数値です。
実際、日本の食料自給率がどれ程低いか、答えられる人はほとんどいないでしょう?わずか38%(令和元年度)ですよ。東京に至っては、自給率1%です。日本人の「食育」への関心を高め、同時にSDGsへの認知拡大を図るためにも、今後ますます「食育」を絡めた活動推進の意義は、高まっていくものと考えています。

服部さん

自分にとっての「譲れないもの」

●小学生のときの体験が今の道を拓いた

「食育基本法」のひとつの柱である「食の安全性」を私が初めて意識したのは、小学校4年生のときでした。当時、家の近くに沼があって、近所の友達とメダカを捕ったりザリガニを捕ったり、よく遊んでいました。
ある日、見知らぬおじさんが一斗缶で沼に何かを捨てていて水面がさ~っと虹色に光って見えたんです。子供たちみんなで「そんなものを捨てたらダメだ!」と訴えたのですが聞き入れられず、翌朝には、魚やザリガニ、生き物がみんな死んで浮いていました。この光景は今でもはっきりと覚えています。それ以来、何に熱中しようと、頭には常に「食」に対する思いが強く根付いていたようです。
そもそも私の祖父母、両親も、食に携わる人間でした。祖母は外国から入ってきた調理法を日本人に合うようアレンジし、生徒に教える教室をやっていました。父がその料理教室を継ぎ、母も教えていたのです。 祖母によれば、私は2歳くらいから包丁を持たされていたそうです。小学校4年 の時、父から突然、「天丼をつくれ」と言われたときは困りました。それまでも卵焼きとかご飯の炊き方は祖母から教わっていましたが、丼ものなんて、初めてです。なんとか作ってはみたものの、父はひとくち食べて「まずい!」と言ったきり、何も教えてくれません。そこで、祖母が食べ歩きに連れて行ってくれまして、当時、神田にあった「天政」さんに、丼汁の作り方から何から教えていただきました。
家に帰って作ったら、オヤジが「うまい!」と喜んで食べてくれました。それが無性にうれしくて「自分は料理に携わる人間になろう」と決めたように思います。祖母は自分たちの跡を継がせようと目論んでいたかもしれませんが、私自身はごく自然に「食の道」に入っていたというのが実感です。大学卒業後、医学部に進んだのも、食に関しての裏付けを知っておかなくてはいけないと思ったから。食の安全、エビデンスを導き出す方法を教わりました。
今後コロナ禍はしばらく収束せず、日本全体が経済的に厳しい状況が続くかもしれません。飲食業界で働く立教のOB・OGの皆さんもさまざまな工夫をしてこの苦境を乗り切ってほしいですね。そして若い世代の皆さんには、「自分のやりたいことを見つけよう」と思う強い気持ちを持ち続けていただきたい。「これだけは」という思いを、大切に持ち続けてほしいですね。
私自身は、周囲から見れば寄り道の多い人生だったかもしれません。でも、結果的にはすべて1本の道につながっていたのですから、寄り道も決してむだではありませんでした。「これだけは譲れない」という気持ちさえあれば、道は拓けるはず。ぜひ頑張っていただきたいと思います。
(取材/河西 真紀 撮影/増元 幸司)

服部さん
服部 幸應(はっとり ゆきお)
1945年生まれ。立教大学卒業後、昭和大学医学部博士課程学位取得。学校法人服部学園 服部栄養専門学校 理事長・校長。農林水産省「食育推進会議」委員・「食育推進評価専門委員会」座長。(公社)全国調理師養成施設協会会長。日本食普及親善大使。 2005年に世界初となる「食育基本法」成立に尽力。旭日小綬章や仏国よりレジオン・ドヌール勲章を受章。著書に『服部幸應の日本人のための最善の食事』(日本能率協会マネジメントセンター)他、多数。

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