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Alumni Special Interview

立教大学OBで浅草にある106年続く「浅草おでん 大多福」二代目 舩大工安行(ふなだいく・やすゆき)さん(昭39経)に、学生時代の思い出や大多福に対する思いをお伺いしました。


━浅草から電車で通った学生時代━

中学から立教に通っていた舩大工さん。学生時代から自治会に参加するなど精力的に取り組んでいたようで大将としての器が伺える。大学生時代は将来家業を継ぐことが決まっていたため経済学部に進学、部活は釣り部に所属し、自由によく遊びよく学びよく遊んだ4年間を過ごしたそう。戦後の池袋は今とは全く違う姿をしていたという。駅前には闇市が広がり、出勤前の男性たちが朝食を食べる中、学生時代の舩大工さんは学校に通っていた。また、多様な人が乗車する通学電車の中ではハプニングもあったそうで「周りの友人よりも一歩先に社会経験をさせてもらったことがおでん屋を継いだ際に活かされた」と語っていた。

お多福
「よく遊びよく学びよく遊んだ4年間だった」と笑顔で話す

━店を継ぐのだと自然に考えていた━

初代である父は、もともと大阪で料理屋を営んでいた。その傍らでおでんを販売するとそれが人気となり、大正4年に東京に移り今の本店の場所に料理屋を開業。大阪の時代と同じようにカウンターではおでんを振る舞っていた。その後関東大震災、第二次世界大戦の東京大空襲によって一時は疎開を迫られたそうだが、戦後再び同じ場所でおでん専門店として再開し今日まで歴史を紡いできたという。料理屋として様々な困難を乗り越えていく父の姿をそばで見ていた舩大工さんは、「大多福を継ぐ」と幼い頃から自然と心に決めていた。
大学を卒業し家業に本格的に専念しはじめた頃には、先代であった父はすでに60代で足腰も弱かったため、すぐに二代目として継ぐことになった。店に出るという経験があまり無い中、二代目となった舩大工さんは現場で見て学んだ。朝から市場に出て、仕込み、集金、営業と寝る間も惜しんでひたすら働いた。店主としての怒涛の幕開けから今日まで大多福の味を受け継いできた。

お多福
おでんは種類が豊富。季節ごとのメニューもぜひ試したい

━時代とともに生きてきた大多福━

106年続く大多福を父から継ぎ、現在は舩大工さんの息子さんが継いでいる。今日までおでん屋として多くの人に愛される大多福が続いているのには理由がある。戦前のおでん屋にはおでんが持つ独特なシチュエーションがあったと舩大工さんは語った。なにか悲しいこと悔しいことがあった時、フラッと屋台に入りおでんを食べながらお酒を飲む。すると話しやすくなり友人や店主に愚痴をこぼす。このような場としておでん屋は有り続けてきたがその後、時代の変化に伴い屋台は減少。さらに戦後、洋食が家庭料理として普及したことで、おでんのような手間のかかる煮物料理は家庭でも食べる機会が減った。そんな中、煮物を食べたい人々に「おでん屋」という形がヒットしたのだ。それまで料亭として寄せ鍋などを振る舞っていた大多福は、おでんの大衆化に伴いおでんを中心に振る舞うようになった。
今でも料理屋としての名残はあり、新鮮な刺身などおでん以外の料理も豊富に揃えてある。店も老朽化に伴い昨年改装しカウンターと個室ができ、店内は和モダンな雰囲気に変わった。店内の暖簾や絵は舩大工さん自ら制作されたそうで非常におしゃれな雰囲気になっている。新型コロナウイルス感染防止のためのアクリル板にも「なんだか寂しいから」と暖簾がかけられており、店主としてコロナで人との距離が広がってしまった中でも暖かさを感じる気配りが伺えた。

お多福
昨年改装した2階カウンター席
お多福
舩大工さんが描いた絵が店の雰囲気を一層引き立てる

━さいごに━

先代がおでん屋を切り盛りしていた時代から多くの立教関係者にも愛されてきた浅草おでん大多福。コロナの影響により飲食業界は苦境に立たされているが緊急事態宣言が明けた際には営業を再開するそうだ。立教の皆さんをお待ちしているので気軽にお越しくださいと舩大工さんは最後に笑顔でおっしゃっていた。舩大工さんの笑顔とともにおでんを味わう日が早く来てほしいと願うばかりである。
【ライター:吉村萌さん】

三太郎
学生ライターの質問に答える舩大工さん
(写真右:学生ライター 吉村萌さん)

インタビュー実施に協力してくださった卒業生から、動画をご提供いただきました。

三太郎

立教人が営むお店が全国各地にあります。今回は東京でこだわりをもって、モノづくりをする卒業生を紹介します。
※全国各地の卒業生のお店はこちらからご覧いただけます。

    内田さん
    立教マルシェ

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