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Alumni Special Interview

研究室を訪ねて
立教出身の社会学部教授 阿部治先生

2020年度末で定年退職を迎える社会学部の阿部治先生は、まさに日本における環境教育のパイオニア。「環境教育」という言葉が一般的になる前からその重要性を認識し、環境教育を広める様々な活動を行ってきました。

阿部先生

動物の足音が当たり前に聞こえる環境

新潟県の塩沢町で7人の兄弟の末っ子として生まれました。家からムササビやリスなどの野生動物を見ることができるほど自然豊かな里山でした。冬は父親が出稼ぎに出ていましたが、4年生の時に裏山に上越国際スキー場ができて生活が一変しました。両親がスキー客を対象とした民宿をはじめたのです。おかげで生活は安定しましたが、野生動物が減少し、開発と環境保全とのジレンマを肌で感じた幼少期の体験が私の原点です。



自然保護を学ぶ大学へ

自然保護について学びたくて大学は日本初の環境保護学科を有する東京農工大学に進みました。生態調査のためにクマやシカを捕獲するのですがどう捕まえようかとみんなで試行錯誤してね。クマの罠の餌にはハチミツが一番というのは実際にその通りでしたよ(笑)。生物の教師になり私のような子どもたちを育てたいと思い日本初の環境科学大学院である筑波大学環境科学研究科に進学し、当時は日本で只一人、環境教育の講座を開いていた中山和彦教授の指導を受けました。

突然の病魔。人生の転機に

そのような中で突然、指定難病の一つであるベーチェット病を患い入退院を繰り返す生活を送ることになりました。医師からは失明を宣告されました。そこで初めて目の見えない人は自然をどう見ているのだろうと考え、筑波大学附属盲学校を訪ねたところ、視覚障害児への生物教育の草分けでもある青柳昌弘先生が同校での生物の非常勤講師を紹介してくれました。それでも視力への不安から学校の教師になることはあきらめざるを得ず、研究者への道を進むことになったのです。

環境教育の構築とESDの提唱

筑波大学心身障害学系専任講師として障害児教育に携わった後、1988年に埼玉大学教育学部で助教授の職を得ることになります。「情報教育」の担当でしたが、大学に掛け合って、「環境教育論」の授業を日本で初めてつくりました。でもこれはあくまで私のボランティアでした。実はその前年の1987年に清里のキープ協会で開催された会合に参加し、環境教育への熱い思いを持つ多くの人と出会ったことがその後の原動力になりました。清里が立教との縁の始まりです。日本にまだ環境教育の言葉もないような時代でしたが、学会やNPOなどの設立に奔走し、さらに環境教育の概念を「人と自然」「人と人」「人と社会」のつながりや関係性の改善を重視した広義の環境教育として自ら再定義し、その後のESD(Education for Sustainable Development)「持続可能な開発のための教育」の国連の10年への提唱につなげました。

阿部先生
マダガスカルで大きなカメレオンと(2013年)

立教へ着任 立教を環境教育/ESDの拠点に

立教への着任は2002年、社会学部に現代文化学科を設立する年です。同時に独立大学院異文化コミュニケーション研究科でも教鞭を執ることになります。立教では環境教育やESDに関する国際会議や学会などの会合を実に多く開催しました。研究者やNPO、国際機関、政府関係者などによる国際ネットワークの設立や立教を環境教育/ESDの拠点にすべく尽力しました。近年はSDGs(持続可能な開発目標)が叫ばれいますが、その実現の鍵はESDにあると昨年末の国連総会で決議されました。日本初のESD研究センター(現、ESD研究所)を立ち上げた立教はまさに先見の明があったということです。国内外・学内外で教育、研究、実践といろいろなことをやってきましたが、まだまだやるべきことがあります。それでも、立教の風通しのよいリベラルな校風はいいですね。一教員が直接、総長に直談判できるような大学はそうはありません(笑)。

You are the Future

立教で多くの学生と出会いましたが、立教の学生は本当に素直でいい子が多いですね。他方、世の中を変えていこうとか、私のようにゼロから物事を立ち上げていこうというアグレッシブな学生は少ない印象です。だからこそ、学生達にはYou are the Future!という言葉を伝えたいです。あなた自身が未来、あなた達若い世代は存在しているだけで素晴らしいのだと。そして自信をもって色々なことに挑戦をしてほしいですね。失敗してもいいのです。なぜなら、あなた自身が希望の詰まった未来だから、と。


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